第6回 KUFSゼミナールカフェ 開催報告
第6回KUFSゼミナールカフェのゲストは、京都外国語大学外国語学部スペイン語学科教授の立岩礼子先生でした。2016年のはじめ、1月9日(土)の晴れた日に行われました。つい先日に17世紀メキシコシティにおける征服祭についての博士論文を提出して博士号(歴史学)を取得され、スペインでの授与式に出席された立岩先生。その研究の成果を少しでもゼミナールカフェにて話をしてほしいと打診したときには「新年早々血なまぐさい話になるかも…」と心配されていました。しかし当日は、そんな心配など気にならないくらい大いに盛り上がり、1時間では収まりきれないほどの物語を話していただきました。
今回のメインは、メキシコの首都「メキシコシティ」。皆さんは、メキシコシティと聞いてどのような印象を持ちますか。現在のメキシコシティは京都市の2倍以上の面積を有し、人口では東京と並んで世界有数のメガシティに分類され、まさに大都市として成長を続けているそうです。この都市の様子は、メキシコ大統領宮殿内に大きな壁画(ディエゴ・リベラ作)として残されていると、立岩先生は語ります。この壁画はスペイン語がわからない人々からも、メキシコという国の過去と現在と未来の様子が理解できるようにという目的で作成されたのだそうです。今回のゼミナールカフェには、スペイン人が侵略してきた頃のメキシコシティの様子がわかる壁画の一部が掲載された画集を持参していただきました。両手いっぱいに広げないと全体が見渡せず、持ち上げると重く感じるほどの大きな画集です。広げたページには、スペイン人がメキシコを征服する以前のメキシコシティの様子が、高くそびえ立つピラミッドを背景に、活気のある市場で色とりどりの衣をまとったアステカの人々(メキシコ先住民で、メキシコ人のルーツ)が売買する様子が描かれていました。
さて、メキシコシティをめぐる物語のお話は、スペイン国王の名のもとに征服者コルテスが、アステカ帝国の皇帝の招きでメキシコシティを訪れたところから始まります。コルテスはメキシコシティを目の前にして、「ユートピアを発見した!」と思ったそうです。それは、東西南北に碁盤の目のようにまっすぐな道路が走るグリッドシティだったからです。中世の迷路のようなヨーロッパの都市では、こうした整然とした街並みは理想都市とされていたのです。そして、その豊かな恵みにも目を見張ったそうです。当時のメキシコシティは湖に浮かぶ島で、市場には魚もたくさん並んでいた上、農業も盛んで、当時のスペインでは存在を知られていなかったトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、トマトなどの食材が豊富にあったそうです。今では、トマトはイタリア料理の代名詞ですが、もともとはメキシコからスペイン人がヨーロッパに紹介した作物なのだそうです。このように、当時のスペイン人にとってアステカの都メキシコシティは、素晴らしく、魅力に溢れていて、コルテスはその感動とともにメキシコシティの様子をスペイン国王に詳しく報告した、と立岩先生はおっしゃいます。
続いて、コルテス率いるスペイン人たちが、メキシコの先住民が信仰していた宗教からくる習慣に不気味さを覚えたという物語です。その当時のアステカの宗教は多神教でした。人々は、最も偉大な太陽神が、様々な神が合体した姿の死を司る神に敗北してこの世の終わりが来ないようにと、太陽神に生け贄として人間の動いたままの心臓を捧げる習慣があった、と説明してくださいました。生け贄になったのは、戦争で捕まった捕虜でした。アステカ帝国はこの生贄を絶やさないために戦争を仕掛けて、捕虜を獲得した好戦的な部族だったと言われているそうです。もちろん、食人の習慣もあったとのことです。ですから、スペイン人たちもアステカ人との侵略戦争に敗れたら、自分たちが生贄になると恐れていたわけです。現代の私の感覚から言えば想像できず、恐ろしいと思ってしまいませんか。それは、コルテス率いるスペイン人たちも同じで、「そんな習慣は正さないといけない!」と思い、コルテスたちも修道士たちとともに、メキシコでのキリスト教の布教に熱心だったのだそうです。
そして、征服後のメキシコシティの都市についてもお話をしていただきました。約1年を要した戦いの結果、1521年にコルテスはメキシコを征服。この征服戦争によって、ピラミッドは焼け焦げ、瓦礫と化し、スペイン人とアステカ族の遺体が転がり、またそれを食べている先住民がはびこるような、地獄絵の様相を呈していました。コルテスはすぐに都市の清掃と再建を命じ、メキシコシティはおよそ3年後にスペイン植民地の中心都市として蘇りました。中央広場には、コルテスの邸宅(現大統領宮殿)、大聖堂、市役所といった建物が作られ、広場の真ん中には司法を象徴するギロチンの台が置かれていました。キリスト教の布教のために、多くの修道院も建設されました。アステカ帝国の都をユートピアと称賛したコルテスは、ピラミッドを残すことを希望したのですが、すべて破壊され、その石でメキシコシティが再生されたとのことです。この重厚な石造りの街並みは18世紀には世界一美しい都市とヨーロッパでは評判になり、20世紀初頭フランスの流行を取り入れた優雅な公共の建造物が増え、メキシコシティは洗練されていきます。現在、ユネスコの世界遺産都市となっています。かつて異端審問の火あぶりの刑が行われ、断頭台が設置されていた中央広場は、現在は195m×240mの世界有数の広さを誇る広場で、夏には野外コンサートのステージ、冬には屋内スケート場が設置されて、市民の憩いの広場になっているそうです。立岩先生は現在のメキシコシティの観光地図を参加者に配ってくださいました。
ゼミナールカフェの最後に15分くらい質問の時間がありますが、今回も様々な質問が出ました。まずはコルテスについてです。立岩先生の話によりますと、歴史の上では、コルテスは国王の名においてメキシコを征服したということになっているが、コルテスが残した書簡などを読んでいると、ペルーを拠点とした南アメリカや太平洋を横断してフィリピンを結んで、金や銀、真珠、香辛料などの輸出入に関するビジネスを興したかったということがわかるそうです。コルテスはメキシコで英雄として語り継げられているのかと尋ねてみると、立岩先生の答えは意外にも「メキシコ先住民女性に子供を産ませたスペイン人男性の象徴としてコルテスを嫌う人たちもいる一方で、スペインの征服によってもたらされたヨーロッパ文明のおかげでメキシコが進歩したとコルテスを評価する人たちもいる」とのことでした。また、質問がメキシコで16世紀から17世紀にかけて最盛期を迎えた銀の生産と同じころに日本最大の銀の産出量を誇った岩見銀山の関係に及ぶと、中国の明の皇帝が貿易の通貨を銀に定めたことから、メキシコとフィリピンを結ぶ太平洋貿易ではメキシコ銀がアジアに流れたこと、徳川家康がメキシコに銀の精錬工を要請し、日本の銀精錬技術の向上を図ろうとしたことなどの説明がありました。
今回のゼミナールカフェは、初めてのスペイン語圏のお話でした。開催前に持っていたメキシコへのイメージがまったく変わりました。世界の事例を概観すると、侵略された側の人々の苦しさが語られることが多々ありますが、メキシコの物語は一風変わっていて興味深く聞き入りました。今回のゼミナールカフェには、立岩先生のゼミの卒業生が参加する等参加者も多岐に渡りました。参加者の皆さんのおかげで新たなゼミナールカフェの可能性が垣間見えたように思います。足を運んでくださった参加者の皆様、話をしてくださった立岩先生、誠にありがとうございました。
(ホスト:真木まどか)