水村美苗「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」

センター試験ですね。試験監督がないので、何もない週末です。みなさん、すいません。

家にいて、たまっているビデオ(といってもHDDなんですよね。ついついビデオって言っちゃうけど)を見る。「THE THREE THEATER SP」、「トライアングル」、「あらびき団」、「デジタルネイティブ」など。「THE THREE THEATER」はいいよねー。こういう番組がもうちょっとほしいな。

合間にはシラバス書き。採点準備。読書。たまにはこういう日もないとね。あ、査読があった、、、。明日します。

英語の勉強はなんとか続いている。続けているのには、いろんな理由があるのだけど、その1つに年末に水村美苗「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」を読んだこともある。ブログでは話題のようで、それで知ったのだが、とても興味深い内容だった。

ネット上にたくさん書評(梅田望夫氏@はてな、小飼弾氏など)もあるし、あまりうまく書けないので、ぜひ読んでもらいたいと思うのだが、言語を「普遍語」「現地語」「国語」の3つに分けて議論を進めている。知を伝えたり、求めるために普遍語が必要となったり、翻訳という作業が出てくる。文学者や人文科学研究者の場合は、また異なると思うが、この本を読んで、私のような分野の研究者の場合、「普遍語」を操れることが必須だ、と痛感した。自分の存在意義をずっと考えていた時だったこともあるだろう。

内容については賛否両論あると思うのだが、とくにうちの学生には読んでみてもらいたい。外国語大学の大学生として、なにかしら思うところがあってほしい。

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このページは、村上正行が2009年1月17日 23:55に書いたブログ記事です。

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