外国語教育と教養教育

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予定外に昼まで寝てしまう、、、。あぁ。英語文献読み。夕方、タイ式マッサージ。心身ともに癒される。

ホームページを少しだけ更新している。読書記録をやめて、ブクログのサービスを使って今年に読んだ本をとりあえず記録している。コメントとかは今のところ全く書いてないですけど。今のところの本棚です。なんか軽い本ばっかり読んでてよくないんですけどね、、、。

「中央公論」5月号で面白い原稿を読んだ。もともと「特集 学校の教師はダメなのか」で買ったのだけど、「達人たちが語る知的整理法革命」というのがあって、野口悠紀雄、梅田望夫、佐藤優、勝間和代、茂木健一郎と草々たるメンバーで面白く、先に読んでしまった。

その中で外山滋比古の原稿の中に、外国語の学習と教養教育についての記述があった。

 「かつて旧制高校では、外国語を中心とした教養主義的な教育が行なわれていました。実は、これが思考力のトレーニングになっていたのです。  外国語の場合は知識が少ないですから、外国語と格闘していく課程で思考力や想像力を鍛えることができました。これは、ある程度の知識が既にある日本語ではなかなかできないことです。  大正時代の教養主義の一番の根幹は、外国語の読解です。頭の訓練としては、日本語の古典を読むより、外国語の難しい本を読むのがいい。哲学書などは最も適しています。」

が中心となる部分で、このあともしばらく続く。たしかに、と思う。外国語を教えているわけではないが、外国語大学に勤める者として心に留めておきたい文章である。

大学自体が変わりつつあり、授業自体も変わっているので、さすがにこの論をまるまま実行するわけにはいかない。しかし、授業内容を分かりやすくしても、内容が容易になってはいけない。私もついつい内容を容易にしてしまうことも多い。学生の可能性をもっと信じないといけない。大学教育やFDをやっている身としても気をつけないといけない点だと思う。

そして、この節の最後の方に、このような記述がある。


すぐ専門課程に進んでしまいます。専門改定では、大変な専門知識を身につけて、自分はえらくなったのだと思い込む。これを名付けて「知的メタボリック症候群」と私は読んでいます(笑)

まずは、自分が「知的メタボ」にならんようにせんとあかんな(苦笑)。もっと重厚な本を読んで教養を身につけねば。

コメント(3)

外国語教育において、「読ませる」は近頃評判が悪いけれど、
やはり必要なことだと思います。
たとえば、自分の専門言語のテクストのものでも、翻訳があるとついそちらを読んでしまいますが、やはり斜め読みになりがち。
原書で読むと、ぼーっとしてたら分からなくなるので、一語一語集中して読みますね。
それにヨーロッパ言語のように構造的で、論理的な文をたくさん読むことで、論理的な思考力がつくのは当然でしょう。
会話重視もいいけれど、あいさつとか中身のない友達言葉ばっかり覚えてもなあ…欧米人は議論好きなので、論理的な思考を鍛えておかないと、「ちゃんとした」会話はできません。
それから考えたら、発音なんて二の次。
「英語舌」鍛える前に、論理力だと思うんだけど…

そうですね、英語文献を読むときは流し読みはできませんからね。ただ、英語が苦手な私は、眠くなってしまう、という問題が、、、(苦笑)。

教養教育に所属する身としては、日本語でもたくさん読ませることを並行させつつ、専攻語の文章も読めるようになればな、と思っています。論理力を鍛えるのも、みんなで知恵を絞って考えたいです。

旧制の伝統を継承する古いタイプの語学教育で鍛えられた者としては、嬉しい御発言ですね。この賛同は、多少、自己弁護的ではありますが(笑)

ゼミ基礎教育の中に、そうした文献読解を組み込みたいのですけれど、何せ、配当される時間が余りに少ない。ちょっと乱暴な話をすれば、(旧制高校の様にカントを原書で読ませるなんてのは無理としても)例えばA.スミスとか、J.S.ミルとか、そういう理論的な書物を最低でも一年間位丁寧に読ませたいですねえ。単なる夢物語でしょうけれど。

きちんと論理的に物事を考えられる人は、外見上は(そうでない人と)同じ仕事をこなしているようでも、奥行きが違うし、発展性が全然違うのですよねえ。

このブログ記事について

このページは、村上正行が2008年5月 4日 23:55に書いたブログ記事です。

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